茨城県ユニバーサルメルカトル図法(笑)で一躍有名になった?メルカトルという言葉。 実はこのメルカトルとはある人物の名前の事なのです。 stat.go.jp 世界地図と聞けば日本人なら誰しもが、この画像のような地図を思い浮かべるでしょう。 本来球体である地球を平面に書いているこの手法は、メルカトル図法と呼ばれています。 このメルカトル図法は、メルカトルが1569年に発表した地図に使われていた手法で、ご存知のように現在に至るまで広く世間に親しまれています。 では、この名前の由来となったゲラルドゥス・メルカトルとは何者なのでしょうか? どのような生涯を送った人物なのか共に考察してみることにしましょう。 生まれた頃に存在した地図 1512年、イギリスより少し南に位置する現ベルギーで彼はその産声を上げました。 新大陸アメリカを発見したことによる世間の熱は冷めておらず、時は大航海時代。 そのため航海に役立つ正確な地図が必要とされている時代でした。 http://commons.wikimedia.org/wiki/File:CantinoPlanisphere.png 1502年には上記のような地図が作られていたことが確認されています。 サイズ大の超綺麗バージョンは参照元サイトにあるので、じっくり眺めたい方はどうぞ。 ヨーロッパ周辺は良くできていますね。 アフリカ大陸などは当時の様子が書かれているのだと思います。 妄想するのも楽しいですね。 メルカトルの育った時代背景とその成長 メルカトルに与えられた教育環境は優れたもので、カトリック教義やその他様々な高度な教育を施されたと考えられます。 5歳の頃、1517年にルター発端の宗教改革が行われました。 そうした波があったにもかかわらず、彼はカトリック教徒として育てられます。 そして1530年、メルカトルはルーベン・カトリック大学に入学します。 ここで彼は人文学や哲学を学んでいました。 しかし、彼はしだいにこの哲学に疑問を感じるようになります。 おそらく当時のカトリック教は、アリストテレスの哲学に影響を受けた教理を築いていたのだろうと思いますが、メルカトルは聖書とアリストテレスの哲学論が調和しないと感じるようになっていきました。 メルカトルの哲学に対する熱意は次第に薄れていきます。 しかしそれに反比例するように、メルカトルは地理学に力を注ぐようになりました。 地理学において彼の教師であり、メルカトルに多大な影響を与えた人物はゲンマ・フリシウス。 師のフリシウスが1536年に地球儀を作った時、メルカトルもその作業に貢献していたことでしょう。 フリシウスが作った地球儀の画像は見つかりませんでした。 代わりに1541年にメルカトルがつくった地球儀の画像です。 そしてフリシウスと共に地球儀を作った一年後1537年、彼は聖地イスラエルの地図を単独で作り上げます。 25歳であったこの時、地理学者メルカトルとして彼は人生を歩み始めたのです。 さらに同じ年、彼には息子が生まれ父親としての人生も始まります。 最大の功績 その後メルカトルの人生は、順風満帆というわけにはいきませんでした。 最大の逆境は1544年、カトリック教会から異端者の疑惑をかけられ投獄されたことでしょう。 7か月とはいえ拘留されている間、メルカトルも家族も非常に辛い期間だったと察せられます。 そうした経緯がありながらも、彼はついに歴史に名を刻むことを成し遂げました。 1569年、57歳の時メルカトルはなんと大陸を網羅した世界地図を発表したのです! 上の画像がメルカトルの発表した地図、下が現在の地図です。 まだ世界が丸いという真実が確証されてから世の中に浸透しきってはいないであろう時代です。 未開の地アメリカ含めた大部分の土地は正確とは言えないですが、ヨーロッパ、アフリカあたりの精度の高さはすさまじいですね。 この地図を描くのに使われた手法が現在メルカトル図法と呼ばれるもので、 今私たちが普段目にする世界地図に標準的に採用されたものなのです。 ご尊顔 ゲラルドゥス・メルカトルは1594年に死去します。 その時彼にはやり遂げられなかった仕事がありました。 そのやり残していた仕事、つまりアトラスの発行は息子に受け継がれます。 メルカトルの息子アーノルドは翌年、1595年に父の悲願を達成させたのでした。 メルカトルがどんな人柄だったかは詳しくはわかりませんが、 誠実で子供たちから尊敬されるような父親だったことは間違いないでしょう! larousse.frglobal.britannica.comeveryhistory.orgsussexvt.k12.de.usgroups.dcs.st-and.ac.u