1: 名無しさん 2017/06/27(火) 01:17:02.21 6月26日 日刊ゲンダイ オリックス元球団代表:井箟重慶 宮内オーナーが清原をコーチにしたらどうかと聞いてきた オリックスで最初に清原和博に目を付けたのは仰木彬監督だった。2004年オフ、球界再編によって近鉄と合併、 2度目の監督に就任した直後の話だ。といっても、純粋な戦力として期待したわけではおそらくない。清原の ネームバリューと人気が欲しかったのだ。新生球団の狙いのひとつは大阪進出だった。大阪は近鉄ファンも含め、 必ずしもオリックスに好意的な人たちばかりではない。清原獲得で大阪のファンの支持を得たかったのだと思う。 仰木監督は常に営業面も視野に入れてくれる、フロントにとってはありがたい指揮官だった。清原はしかし、 巨人に残留。オリックス入団は結局、自由契約になった翌05年オフ、仰木監督が亡くなった後だった。 2: 名無しさん 2017/06/27(火) 01:17:30.99 わたしが清原人気の凄まじさを目の当たりにしたのは、さらに3年後の08年5月、あじさいスタジアム北神戸で 行われたウエスタンの阪神戦だった。左膝手術から603日ぶりの実戦とあって、試合前から球場周辺には長蛇の列。 内野はすぐに埋まり、それでも足りずに外野席を開放した。開場以来最多の5621人の観客はしかし、 清原が四回に四球を選んで代走を告げられると、波が引くように球場を後にした。 3: 名無しさん 2017/06/27(火) 01:17:59.02 5カ月後の10月1日、3万175人が押し寄せた京セラドーム大阪の清原引退試合は盛況だった。シーズン終了から3日後 だったにもかかわらず、マリナーズのイチローも米国からわざわざ駆け付けた。なにより驚いたのは花輪の多さだ。 球場の入り口から通路にかけてずらりと並び、置く場所がなくなって選手ロッカーにも。それでも足りずに食堂まで 飾られていた。仰木さんが欲しがるわけだと実感した。念のためというか、いったい、どういった人たちが花輪を 出してくれたのかと思い、ひとつひとつ見て歩いた。やっぱりというか、案の定、怪しい名前も多かった。こいつは、 危ないと思った。それからしばらく経って、宮内義彦オーナーがあるとき、わたしに清原をコーチにしたらどうかと 聞いてきた。「ウチでユニホームを脱いだんやし、ええんやないか?」 引用元:http://hawk.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1498493822/