121: 名無し三等兵 ID:4/5a+OCu 81 :コロネル・シバ :02/02/26 22:25 ID:4/5a+OCu ちょうど100年前の1902(明治35)年1月30日、日英 同盟が成立した。同盟締結を推進したのは、駐日公使マグドナ ルドであった。マグドナルドは前年夏の賜暇休暇にロンドンに 帰るとソールズベリー首相と何度も会見し、7月15日には日 本公使館に林菫公使を訪ねて、日英同盟の構想を述べ、日本側 の意向を打診した。マグドナルドは翌日も林公使を訪問して、 イギリス側の熱意を示した。それからわずか半年後には異例の スピードで同盟締結の運びとなった。 イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐとい う点で利害が一致したからである。しかし、当時の超大国イギ リスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をわずか半 年で一大転換し、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日 本であるとは、いかにも思い切った決断である。その背景には マグドナルド公使自身が一年前に経験した一大事件があった。 1985(明治28)年、日清戦争に敗北して、清国が「眠れる 獅子」ではなく「眠れる豚」であることを露呈するや否や、列 強は飢えた狼のようにその肉に食らいついていった。三国干渉 により日本に遼東半島を返還させると、それをロシアがとりあ げ、同時にドイツは膠州湾と青島、フランスは広州湾をむしり とる。イギリスは日本が日清戦争後にまだ保障占領していた威 海衛を受け取り、さらにフランスとの均衡のためと主張して香 港島対岸の九龍をとった。 こうした情況に民衆の不満は高まり、義和団と称する拳法の 結社があらわれた。呪文を念じて拳を行えば、刀槍によっても 傷つくことはない、と信じ、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を 滅ぼせ)」をスローガンとして、外国人やシナ人キリスト教徒 を襲うようになっていった。 続きを読む