1: 2017/01/15(日) 22:59:12.27 ID:jQRNy/QG0 BE:135853815-PLT(12000) ポイント特典 「民の原像」と「死者の国」 (略) 日本でもどこでも、極右の政治家の方がリベラル・左翼・知識人よりも政治的熱狂を掻き立てる能力において優越しているのは、彼らが「死者を呼び出す」ことの効果を直感的に知っているからである。 靖国神社へ参拝する日本の政治家たちは死者に対して(西郷が同志朋友に抱いたような)誠心を抱いてはいない。 そうではなくて、死者を呼び出すと人々が熱狂する(賛意であれ、反感であれ)ことを知っているから、そうするのである。 どんな種類のものであれ、政治的エネルギーは資源として利用可能である。 隣国国民の怒りや国際社会からの反発というようなネガティブなかたちのものさえ、当の政治家にとっては「活用可能な資源」にしか見えないのである。 かつて「金に色はついていない」という名言を吐いたビジネスマンがいたが、その言い分を借りて言えば、「政治的エネルギーに色はついていない」のである。 どんな手を使っても、エネルギーを喚起し、制御しえたものの「勝ち」なのである。 世界中でリベラル・左翼・知識人が敗色濃厚なのは、掲げる政策が合理的で政治的に正しければ人々は必ずや彼らを支持し、 信頼するはずだ(支持しないのは、無知だからだ、あるいはプロパガンダによって目を曇らされているからだ)という前提が間違っているからである。 政策的整合性を基準にして人々の政治的エネルギーは運動しているのではない。 政治的エネルギーの源泉は「死者たちの国」にある。 リベラル・左翼・知識人は「死者はきちんと葬式を出せばそれで片がつく」と思っている。いつまでも死人に仕事をさせるのはたぶん礼儀にはずれると思っているのだ。 極右の政治家たちはその点ではブラック企業の経営者のように仮借がない。「死者はいつまでも利用可能である」ということを政治技術として知っている。 それだけの違いである。けれども、その違いが決定的になることもある。 (略) http://blogos.com/article/205757/?p=2 2: 2017/01/15(日) 22:59:51.19 ID:Msa8rG5X0 絵に書いた餅は食べられないから 5: 2017/01/15(日) 23:00:41.44 ID:OejkXBeK0 要はパヨがアホだと言うだけだ グダグダなげーよ 6: 2017/01/15(日) 23:00:55.36 ID:mVQrt2Po0 あ、こいつ 別の哲学者にけちょんけちょんに論破された奴やん 続きを読む